人間悪魔とトリックスター

去りし日の自己は所有物にあらず

理解していただかなくても結構だけど最近は短歌がアツい

短歌を読んだときある種のアハ体験のような気持ちよさを感じてしまって、それからというもの何を読むにも私は五七五七七を探してしまって何度も読み返す悪癖が身についてしまった

日常の何気ない瞬間にこそ七五調は潜んでいる

ほら、今のセンテンスも五七五七七で読めば快感

ラップバトル流行の理由も日本語の音を楽しむ心ありき、ならば今まさに、短歌ブームなど巻き起こるのではあるまいか

なんてことを考えている

短歌の魅力は何と言っても「自然体」であることだ、と思う。ただし私の云う短歌というものが正しい短歌であるのかは知らない。正しい短歌、というものがのかも知らない。俳句と川柳の違いのように、短歌とただの五七五七七にも何か違いがあるのかもしれないけれど、私はただの五七五七七こそ短歌と称していて、その上で私は短歌が好きだと言う。

 

この記事の中に一体どれだけの短歌が潜んでいるでしょう

 

ただの文字列ではない、人が書いた文章というのは生きている、感情がある、思いが乗っている、それを現すものが五七五七七だとして、ただの文字列からそれらを汲み取れば、瞳の奥から音が聞こえる。

 

この記事でわざと残した五七五七七は8つ、分かるでしょうか?

記念日の意味は分からないけれど思わず口ずさんでしまい悔しい

どうしてこんなのが名作なんだろうって思っていたけど、サラダを見れば思い出す自然なセンテンスであって、誰の生活にも溶け込むことが出来る、誰かの思い出の引き出しになれるから、だから名作なんだっていうことが今なら分かる気がする

言葉は人の想像に理解を委ねる、誰の心にも入り込める余白が大切って誰かが言ってた

 

誰かとは誰だろう、誰かが良くても私には良いかは別問題であって、誰かが泣いても私が笑えるんならそれは喜劇であるし、私にとって良いものであれば他の誰にも好かれてなくたって構わない

この価値観が絶対ではなくなる瞬間を恋としようか

なんちゃって

 

失いし若さはイヤホン付けながら初めての街を行く無謀さ

 

昨年末に東京に行った時に感じました。

主義主張の無い唄 その2

すっかり忘れかけていたというか下書きに沈んでいたこの記事。1年なんてあっという間に過ぎていくんだなあなんてのをこんな変なことから感じてしまった。クラス替えなんて人生の一大イベントだったのに、今はもうボーッとしてたら一学期なんてすぐにでも終わっちゃいそうなスピードで時がゆく。しかしそう感じるのは決して悲観的ではなく、むしろワクワクしているから、やっぱり今が一番最高。なんてクソみたいな楽観的思考で生きているのが私の自慢です。

 以下、続きの記事本文。

 

とにかく私は、BUCK-TICKの曲において「歌詞がいい」とかそういうことは全然期待していなかった。

これから先の内容は失礼を承知で申し上げるが、櫻井敦司の歌詞は、BUCK-TICKを聴き始めた頃の私は、いつも一辺倒で特に内容が無いなあなんて思っていた。そりゃあ、この頃の私はBUMP OF CHICKENが誰より好きで、藤原基央の歌詞が何より好きだったから、音楽における「歌詞」にとても重きを置いて聴いていたから。BUMP OF CHICKENや或いはYUIは、私の思考を揺さぶるような衝撃、新たな価値観の呈示のようなガツンとくるフレーズが潜んでいた。

「生まれたことを恨むのなら ちゃんと生きてからにしろ」

「制服脱ぎ捨てた16のアタシに 負けたくはないから」…

励まされたし問いかけられたし、その度に曲の解釈を考えたり自分の思考について見つめ直したりした。おかげで、こんなに斜に構えた人間が出来上がってしまった。

櫻井敦司の歌詞は、これらの正反対にあると感じている。つまり、世の中に対して斜めから切り込むことや、自分に発破をかけるような言葉は並べない。ただ、目の前の情景、自己嫌悪、愛と死、夢。

「嫌いだ 今夜もまた眠れやしない あなたを夢見て夢 虚ろな夢」

「どんなに人を傷つけた 今夜は優しくなれるかな」

「僕はなぜ風の様に雲の様に あの空へと浮かぶ羽がない」

例えばこういう風に生きようぜとかこんな奴はダサいとかそういう主張が一切無くて、とにかく内省的で、それがとても曲と合っていて、良い雰囲気を醸し出していて。そういうのがとっても心地好くて。

BUCK-TICKの音楽には何も強制されない。とファンの方が言っているのをよく聞く。私はその事についてピンときていなかったけれど、最近それが凄くよく分かる。櫻井敦司の歌詞は、とても優しい。彼が歌う悲しみは何者かへの慈しみであり、怒りはなく、感情の届かない他者ではなくただただ自己を映している。無責任な言葉がない。「同じことしか歌えないんですよ」というようなことを言っていた気がするけれど、十分すぎる。櫻井敦司という人は、曲に対しての想いとか意味とか、そういうものが限りなく無くて。かと言って浮いている訳でもなく。狂おしくて愛おしい夢、変わらない言葉は彼が彼自身のことだけを歌っているから。何にも問いかけてこない、それは心地好い同居人のような感覚というか。無言で過ごせる関係っていいよね!っていう正にその感じ。なんて言いながら、時折、無限の闇を切り裂いてゆけなんて背中を押してくれたり、皆が笑ってくれることが出来過ぎた夢の様だなんて儚いことを言ってくれたりするから、ドーンと聴き手に届くんだよなあ。恐るべし櫻井敦司。あなたの美しさは何も見てくれだけではなく、そうした詞の端々からも感じることが出来るのよ。

今回のツアーにて、なんて事無いわと思っていたLove Paradeがあんなにグッとくるなんて。表現者櫻井敦司は、時々胸にドンと直接響く声を届けてくれるから、だからずっと見逃せない。彼が歌っているのは同じことかもしれないが、彼の歌は同じではない。素敵な表現者だ、と思う。

ちなみに私はノクターンの歌詞が大好き。

 

  閉じ込めた情熱 雨が降る僕の中

  傘を差さない君が佇む

 

うーん、美しい!

MUKOKU

今一番格好良い俳優は村上虹郎だと思う。最早異論は認めないレベル。

菅田将暉のことを今一番格好良い俳優というのには違和感しかなくて、私は彼のことが大好きだけど好きだって言い辛くなっているから嫌だ。私的ベストオブ菅田将暉ピースオブケイクでトイレの前でディープキスしてるやつ、次点では溺れるナイフで用水路かどこかで顔なめてからキスしてくるやつ。なんて改めて考えてみたら割と最近の作品だった。俳優として見ればそこのみにて光輝く菅田将暉が一番魅力的。

とにかく村上虹郎は間違いなく今一番格好良い俳優だし、今の彼を見てると同じ時代に生きてリアルタイムで見られていることに幸せを感じるレベル。俳優として完璧。そんな彼の主演ドラマがテレ東であって見つけてソッコー録画した。ドラマといえばテレ東。放送局によって放送時期とか時間とかがバラバラになってるから見逃しがちなテレ東。そういえば、今期は録画したドラマをほとんど見れていない。もう3週くらい見逃したら全然追っかけられる気がしない。かと言って録画を消すってのも勿体無くてできない。見逃したら負け。

さよならを言わずにさよなら出来たらこんな気持ちにはならなかったんだろうか

0711

大したことないって思ってたのがそもそもの間違いだったのかもしれない、なんて考えてしまうほど思い出す。旅行に行ったのもゲーセンに行ったのもドトールに行ったのも全部そう。他にいないから、そりゃあそうに決まってる。でもそんなことに気付かないほど、そんなことが凄いことだと気付けないほど、長い時間を過ごしてしまった。

今更未練はないけれど、いきなり他人にもなれなくて、でもそうじゃないならどうやって関わればいいのかが分からないから、もしかしたらこれが後生最後になったのもしれない。別にそれでもいいけれど、いいんだけれど、それを思うとなんだかどこか空っぽになったような気がして、変わらない筈なのに何かを受け入れなきゃいけないような気がして、そうしたら平常心ではいられないような気がして、だけど何にも変わらないから、やっぱりこんなことを考えているほうがおかしいんだって思って、そこで思考停止する。

思考停止、で、寝落ち。

 

0724

薄情ものかもしれないが、人の気持ちなんてコロコロと変わってしまうんだってことや、二週間という月日は私を全く違うものにするに十分な期間なんだってことが分かってしまうくらい、もうなんか、今はどうでもよくなってしまった。ぐぬぬ。日記をとることの大切さを知る。忘れてしまう前に、私の苦しみ悩みのいろんなことを記しておかねば。いつかこんなこともあったかもなんて思えたら、全部報われるような気がする。

働くということがまさに今なのかはよくわからない

4月3日に入社式。そこから一週間以上が経過して、ひたすら研修、グループワーク。そしてすっかりしっかり者ポジショニング。我ながら大したもんだと思う。僭越ながらなんやかんやでどんな場面でも愛される性質らしく、もちろん天然の要素だけではなく自分でもそれなりの努力はしている結果だけど、私なんかより遥かに可愛い人達を差し置いて「可愛い」と言われるポジションに腰掛けていたりする。ありがたい。

それとやっぱり賢い人に囲まれるのはいいなあと毎日思ってる。私なんかよりずっと高学歴でずっと真面目に研究してたような人達ばかりで、芯がちゃんとあって、適当な会話が要らない。必要以上の関わりがなくても必要な関係が保てる。話が通じる。思いやれる。当たり前の事だけれど、高校まではあまりに子供で不安定でそんなことは難しく、その後の4年間は、そうか、芯の無い人間ばかりだった。そんな、居心地の悪さの原因を今ようやく突き止めることができた。私は、今の場所に辿り着けたことに大きな喜びを感じている。これまでの努力が全て報われたような達成感、この感覚に溺れずにいたい、というのが一ヶ月のハイライト。

給料、ひとまず借金の6分の1を返済して、自転車を買ったら、家賃の引き落としもあって、気付いたら半分になってた。でも、これからもう貧困生活とはオサラバと思えば、つい嬉しくて、ちょっといいものを食べたりした。食べる量が日に日に減っているのは、きっと大した問題ではなく、とにかく今は、我慢なんてしないで生きたい。

他人を許せない世の中になってませんか

私の好きなコピー
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http://filt.jp/backnumber/no68.html

 

異端児を許せない世の中になっていませんか。平等平等と叫びながらすべてを平らにするために、はみ出た人間を排斥していませんか。

高嶋ちさ子さんの話が面白くてとても好きだ。日本でのあだ名が悪魔で、海外でのあだ名はデビルだったらしい高嶋ちさ子さん。せっかちすぎて角を曲がるときによく角にぶつかるがそれは「私が早いのではなくて角が来るのが遅い」という高嶋ちさ子さん。ちなみに我が家では急いたり焦ったり忙しない場面では「ちさ子やん」「ちさ子かよ」と突っ込みが入る。そんなデビル高嶋ちさ子さん。

あの人はとんでもないけれどそのとんでもなさをよく自覚しているし、公にして批判されることも何とも思ってない素振りで、だってそうなんだもん仕方ないじゃんと言わんばかりに清々しくどうしようもなく悪魔。そりゃああんな人が身近にいたら困るだろうけど勿論そうではないわけで。となれば他人事なわけで。私はその存在を「面白いなあこの人」という風に感じるわけです。

だけどどうだろうこの人がテレビに出るとあのDS事件のことばかりが再拡散されるわ、この人は無理だとか人を見下してる態度だとか何だか好きになれないとか散々なネガティヴな反響がある。

そしてそれを見たメディアが「高嶋ちさ子に非難続出…」などと書き、テレビを見ていない人、ネットの記事しか見てないようなヤツが「なんだこいつろくでもない」と文面だけで判断して切り捨てる。そりゃ文面だけで見たら本当にろくでもないから、ネットニュースを見た人の反応は恨まない。そういう風になるだろうことを分かった上で、せっかくその場では笑いに還元された人間のろくでもなさを、言葉だけでその場の笑いを抜きにして、ろくでもなさだけを切り取って人間を晒し者にする。そういうネットニュースを、私は何より嫌悪する。

テレビ業界は一体どうして、番組の放送内容をネットメディアが記事にすることを許しているのか。野放しにしているのか。結局のところ炎上商法で、それで毎回話題になってそういう記事を書きたい業界人が見てくれるんならWIN-WINです、というつもりなら、私はテレビすらも嫌いになってしまいそう。

 

少し話は逸れるが、昔は戸川純のような人も普通に歌番組に出ていたってことを思うと、私はもうみぞみぞして仕方が無い。世間に受け入れられてたの?と母に聞くと「あの人は変わり者だったよ」と言っていた。それでもやはり「変わり者」として受け入れられていたということだろうなあと思った。ネットの無い時代では人々の目に触れるモノ、所謂メジャーなモノは本当に少なかっただろうと思うが、それでも今よりも幅広く個性のある粒ぞろいだったんじゃないだろうかとも思う。今は何でも見られるようになって聴けるようになって触れられるようになったけれど、メジャーシーンは遥かに縮小しているんじゃないか。本当の意味での「サブカルチャー」なんてもう存在しないんじゃないかって思う。昔は良かった、なんて言われて、クソ野郎と息巻くのが若者なのだとして、私はといえば、そうなのかもしれない、と思いを馳せるばかりで、これもある種の「ジェネレーションギャップ」かなあ、なんて考えていた。