人間悪魔とトリックスター

暗黒宇宙でこんにちは

サンドアートの件

ライブのネタバレを含みます。

 

結論から言えば、私はあのサンドアートは好きではないけれど、ライブ演出としては「アリ」だと思う。言ってしまえば、あの演出に違和感を抱いた時点で、演出としては十分に効果を発揮したんだろうと思うのです。

 

私はまだまだファンとしてはひよっこだが、彼らを好きな気持ちは誰とも優劣をつける必要のない純粋なものだ。だから自分の思うことを綴りたい。愛が溢れて止まらないのです。切れ味を増して愛してるぜ(by美醜LOVE)

BUCK-TICKの特異性のひとつは「歌にメッセージ性がないこと」だと思っている。たぶんいつぞやのブログでも言っていると思う。

聴く側にすべてを委ねてくれる。例え製作のバックグラウンドに何らかの社会的問題があったとしても、聴き手に伝えられるのは音楽それだけであり、それは純粋で、あらゆる推察が無意味になるような、絶対的に抽象的なもの。それは、思想の相違による穿った見方を生み出さない。

時に、歌い手による個人的なメッセージ性というのは、音楽に偏見をもたらす...と私は思う。

そういう音楽を30年以上もずっと届けていてくれているという特異性。時事問題やそれに付随する思想は時代の変化に耐えられないと思うし(だからこそ生まれる美しさや熱量があるのはもちろん承知していますが)、BUCK-TICKの音楽がいつまでも新鮮で古臭くならないのはそういうところに起因すると思う。

それはライブ演出でも同様、歌詞に沿った世界観を醸し出すものはあっても、直接的に内容を説明するものなんてなかったはず。(私の知る限りは)

今回、「ゲルニカの夜」での演出でサンドアートが採用されている。問題はその内容で、歌詞に沿ったストーリーが描かれ、歌詞の内容を説明するようにも受け止められる。「空が狂い出す」「君が君でなくなる」...あれを見ると、これらの歌詞を「爆撃機が来る」「君が死んでしまう」と変換せざるを得なくなる。

どうしてこんな具体的な描写を見せてくるのだろう?確かに違和感があった。紙芝居を見ているような錯覚で、この時のあっちゃんは歌い手ではなくまるでその物語の「読み手」にでもなっているようだった。だからこの曲ではあまりあっちゃんに意識がいくことがなかった。(普段はガン見しているというのに...)

先に述べたBUCK-TICKの特異性、良さをこのサンドアートが殺しているのではないか?と思わなくもない。

だけど、むしろ、この「ゲルニカの夜」では、あえて皆の心に共通の絵を描かせたかったのではないか?と考えると、私の中でいくらか腑に落ちるものがあった。

それはつまり、サンドアートによってこの曲が「完全なるフィクション」であることを強調したかったのでは?ということです。

BUCK-TICKの代表曲である「さくら」「JUPITER」然り、近年のあっちゃんフェイバリットソングである「無題」然り、歌詞の抽象的な世界は、全てあっちゃんのノンフィクションの世界を表現している。具体的な描写はなくても、あっちゃんの実体験が描かれていることは明らかで。明らかなのに、どこまでも抽象的で。だからこそ、私は聴きながらあれこれ想いを巡らせて、歌詞の世界を創造して、あっちゃんの内面を垣間見たような感覚にドキドキしたりして。

アトム京都公演での無題では、「ねえ パパ 許してください」と言いながら何かに馬乗りになってナイフを突き立てるような動作を見せていて、そういうことなのか...?と、とっても見とれてしまった思い出がある。見る度に、悲しさや、後悔の念や、恨みや、慈しみがあって、その多重人格の様相にライブならではの生の良さを感じたのです。そして、その時のライブ演出(舞台演出)は、とってもシンプルな照明によるものだった気がする。何ものにも説明されたわけではなく、私が、音楽から、あっちゃんから、無題の世界観を感じ取ったのです。これがBUCK-TICKのライブだと思うのです。

改めて考えたとき、聴き手に感じ方を委ねていることは、その音楽が「あっちゃんのノンフィクションの物語」を表現していたからこそだったのではないか。ノンフィクション、つまりあっちゃんそのものの物語であるからこそ、具体的な形にはしなかったのではないか、と思うようになった。あっちゃんが詞の裏にどんな想いを隠しているのか?直接的なメッセージ性がないからこそ、私はここを探るのがとても好きで。あっちゃんの魅力が、ひいてはBUCK-TICKの魅力がそこにあると思っている。

対して「ゲルニカの夜」は、明らかに戦争の物語であるということを描写してきた。母を亡くし、兄を愛する、そんなあっちゃんのパーソナルな話ではなくて、ただ真っ直ぐに戦争の凄惨さを表現していた。あっちゃんが「僕はもう踊れないんだ」と言えば、サンドアートは糸の切れたマリオネットが映し出した。「僕」の描写があるなんて。一番想像を掻き立てられる部分のはずなのに...。こうも主人公が明確な歌はこれまであっただろうか?そうサンドアートに気を取られながら、私は考えた。これはつまり、「ゲルニカの夜」が、戦争が、あっちゃんにとっての「完全なフィクションの世界」であることを表しているのだ。と、私は解釈した。歌詞の説明によって想像の余地を与えないことは、その他の曲との対比によって更に強調されることになる。演出が世界観を構築することで、あっちゃんのパーソナルな部分を排除することになる。これによって、戦争というものに対するあっちゃんの私見や思想がグッと抑えられていたのではないか。とも思う。どうしてもテーマを伝えたかっただろう(会報からもその想いが滲み出ている)が、その手段として、自分の主観で伝えるのではなく、あえて物語を通して訴えてきていた。絶対的に伝えたい事をあえて物語というフィルタを通しているあたりに、あっちゃんらしいというか、BUCK-TICKらしさを感じた次第です。先にも述べたが、時に、歌い手による個人的なメッセージ性というのは、音楽に偏見をもたらしてしまう。そう、私にとってBUCK-TICKの音楽というのは、既に何度も述べているが、こうした偏見を持たず、ただ純粋に音楽として聴くことができる素晴らしいものなのです。(これは、今井さんの思考の寄与するところが大きいだろうけど。いつぞやのローリング・ストーン誌インタビューより。)

また、あそこで観客の視覚的イメージを固定することで、最後の「胎内回帰」世界をより分かりやすくするという効果も当然狙いだろうと思う。コンセプチュアルなアルバムだからこそ、最後のイメージは統一したいと考えられたのかもしれない。まあ、回りくどく考えなくても、今回の意図はここだろうなあ。これ以上を詮索するのは野暮だろうな、って思うんだけど、もうここまで書いてしまった。ご容赦を。

長々と書いてしまったけれど、結論は冒頭に書いた通り。サンドアートの具体的な描写があったことで、観客に戦争の凄惨さを見せ、最後まで非常に緊張感を保ったライブになったと思います。MCが無いのも納得できるくらい、完璧な世界が出来上がっていました。ただ、少し、サンドアートのカメラワーク(?)が、気になってしまった。なんとなくダサいというか...うん。ちょっと安っぽく見える瞬間があったかな。分かりやすくし過ぎたというか、演出過剰だったかな、と思う。しかしそれを含めたとしても、この『No.0』というツアーにおける「ゲルニカの夜」は、サンドアートの通りの解釈で聴くことが正解だと思うのです。

という事で、今回のサンドアート演出に否定的な意見があるのも十分に理解できます。でも、私は、その演出効果は結構重要なんじゃないだろうか、なんてことを考えました。

Twitterでこの件に関するいろんな感想を見る度に、自分の解釈もどうしても言いたくなってしまったのです。でも、どうにもこうにもうまくまとめられなかったなーなんて、うんうん唸っている。

長文失礼しました。

しあわせ

書きもしない日記帳とかどこに置いたか分からないファイルとか、成仏できないものが沢山ある。大事なものはどこかにあって、それを皆が探してたとして、実は私が持っていたとして、私は自分をラッキーだとか勿体無いとか思わない自信がある。私は私の感じることしか信じないし信じられない。

あなたが何を考えてたってそれは同じで、私の思い込みに勝るのはなかなか困難でいつも苦労させちゃうね、ごめんね。

私が例えばケイトスペードのネックレスを握っていたとして、あなたが誤解するといけないから、これはあなたへのラブレターとして残しておきたい。空からヘリが堕ちてきていつ死ぬかもわからないから。いつだって会いたいし一緒にいたいし時間って本当に足りない。会いたいから一緒にいて、一緒にいたいから考えてる。考えてる時間なんてないのに、考えなきゃいけないことが多過ぎて、随分と遠回りしているような気がしながら、思えば随分と駆け足で贅沢しているようにも見えるから、いつだって気持ちと思い出の感情は一致しなくて、過去は信じられない。本当のことは今しかないから、思い出は本物でも、それには決して遡及効はない。今がしあわせなら全部いいの。

理解していただかなくても結構だけど最近は短歌がアツい

短歌を読んだときある種のアハ体験のような気持ちよさを感じてしまって、それからというもの何を読むにも私は五七五七七を探してしまって何度も読み返す悪癖が身についてしまった

日常の何気ない瞬間にこそ七五調は潜んでいる

ほら、今のセンテンスも五七五七七で読めば快感

ラップバトル流行の理由も日本語の音を楽しむ心ありき、ならば今まさに、短歌ブームなど巻き起こるのではあるまいか

なんてことを考えている

短歌の魅力は何と言っても「自然体」であることだ、と思う。ただし私の云う短歌というものが正しい短歌であるのかは知らない。正しい短歌、というものがのかも知らない。俳句と川柳の違いのように、短歌とただの五七五七七にも何か違いがあるのかもしれないけれど、私はただの五七五七七こそ短歌と称していて、その上で私は短歌が好きだと言う。

 

この記事の中に一体どれだけの短歌が潜んでいるでしょう

 

ただの文字列ではない、人が書いた文章というのは生きている、感情がある、思いが乗っている、それを現すものが五七五七七だとして、ただの文字列からそれらを汲み取れば、瞳の奥から音が聞こえる。

 

この記事でわざと残した五七五七七は8つ、分かるでしょうか?

記念日の意味は分からないけれど思わず口ずさんでしまい悔しい

どうしてこんなのが名作なんだろうって思っていたけど、サラダを見れば思い出す自然なセンテンスであって、誰の生活にも溶け込むことが出来る、誰かの思い出の引き出しになれるから、だから名作なんだっていうことが今なら分かる気がする

言葉は人の想像に理解を委ねる、誰の心にも入り込める余白が大切って誰かが言ってた

 

誰かとは誰だろう、誰かが良くても私には良いかは別問題であって、誰かが泣いても私が笑えるんならそれは喜劇であるし、私にとって良いものであれば他の誰にも好かれてなくたって構わない

この価値観が絶対ではなくなる瞬間を恋としようか

なんちゃって

 

失いし若さはイヤホン付けながら初めての街を行く無謀さ

 

昨年末に東京に行った時に感じました。

MUKOKU

今一番格好良い俳優は村上虹郎だと思う。最早異論は認めないレベル。

菅田将暉のことを今一番格好良い俳優というのには違和感しかなくて、私は彼のことが大好きだけど好きだって言い辛くなっているから嫌だ。私的ベストオブ菅田将暉ピースオブケイクでトイレの前でディープキスしてるやつ、次点では溺れるナイフで用水路かどこかで顔なめてからキスしてくるやつ。なんて改めて考えてみたら割と最近の作品だった。俳優として見ればそこのみにて光輝く菅田将暉が一番魅力的。

とにかく村上虹郎は間違いなく今一番格好良い俳優だし、今の彼を見てると同じ時代に生きてリアルタイムで見られていることに幸せを感じるレベル。俳優として完璧。そんな彼の主演ドラマがテレ東であって見つけてソッコー録画した。ドラマといえばテレ東。放送局によって放送時期とか時間とかがバラバラになってるから見逃しがちなテレ東。そういえば、今期は録画したドラマをほとんど見れていない。もう3週くらい見逃したら全然追っかけられる気がしない。かと言って録画を消すってのも勿体無くてできない。見逃したら負け。

働くということがまさに今なのかはよくわからない

4月3日に入社式。そこから一週間以上が経過して、ひたすら研修、グループワーク。そしてすっかりしっかり者ポジショニング。我ながら大したもんだと思う。僭越ながらなんやかんやでどんな場面でも愛される性質らしく、もちろん天然の要素だけではなく自分でもそれなりの努力はしている結果だけど、私なんかより遥かに可愛い人達を差し置いて「可愛い」と言われるポジションに腰掛けていたりする。ありがたい。

それとやっぱり賢い人に囲まれるのはいいなあと毎日思ってる。私なんかよりずっと高学歴でずっと真面目に研究してたような人達ばかりで、芯がちゃんとあって、適当な会話が要らない。必要以上の関わりがなくても必要な関係が保てる。話が通じる。思いやれる。当たり前の事だけれど、高校まではあまりに子供で不安定でそんなことは難しく、その後の4年間は、そうか、芯の無い人間ばかりだった。そんな、居心地の悪さの原因を今ようやく突き止めることができた。私は、今の場所に辿り着けたことに大きな喜びを感じている。これまでの努力が全て報われたような達成感、この感覚に溺れずにいたい、というのが一ヶ月のハイライト。

給料、ひとまず借金の6分の1を返済して、自転車を買ったら、家賃の引き落としもあって、気付いたら半分になってた。でも、これからもう貧困生活とはオサラバと思えば、つい嬉しくて、ちょっといいものを食べたりした。食べる量が日に日に減っているのは、きっと大した問題ではなく、とにかく今は、我慢なんてしないで生きたい。

他人を許せない世の中になってませんか

私の好きなコピー
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http://filt.jp/backnumber/no68.html

 

異端児を許せない世の中になっていませんか。平等平等と叫びながらすべてを平らにするために、はみ出た人間を排斥していませんか。

高嶋ちさ子さんの話が面白くてとても好きだ。日本でのあだ名が悪魔で、海外でのあだ名はデビルだったらしい高嶋ちさ子さん。せっかちすぎて角を曲がるときによく角にぶつかるがそれは「私が早いのではなくて角が来るのが遅い」という高嶋ちさ子さん。ちなみに我が家では急いたり焦ったり忙しない場面では「ちさ子やん」「ちさ子かよ」と突っ込みが入る。そんなデビル高嶋ちさ子さん。

あの人はとんでもないけれどそのとんでもなさをよく自覚しているし、公にして批判されることも何とも思ってない素振りで、だってそうなんだもん仕方ないじゃんと言わんばかりに清々しくどうしようもなく悪魔。そりゃああんな人が身近にいたら困るだろうけど勿論そうではないわけで。となれば他人事なわけで。私はその存在を「面白いなあこの人」という風に感じるわけです。

だけどどうだろうこの人がテレビに出るとあのDS事件のことばかりが再拡散されるわ、この人は無理だとか人を見下してる態度だとか何だか好きになれないとか散々なネガティヴな反響がある。

そしてそれを見たメディアが「高嶋ちさ子に非難続出…」などと書き、テレビを見ていない人、ネットの記事しか見てないようなヤツが「なんだこいつろくでもない」と文面だけで判断して切り捨てる。そりゃ文面だけで見たら本当にろくでもないから、ネットニュースを見た人の反応は恨まない。そういう風になるだろうことを分かった上で、せっかくその場では笑いに還元された人間のろくでもなさを、言葉だけでその場の笑いを抜きにして、ろくでもなさだけを切り取って人間を晒し者にする。そういうネットニュースを、私は何より嫌悪する。

テレビ業界は一体どうして、番組の放送内容をネットメディアが記事にすることを許しているのか。野放しにしているのか。結局のところ炎上商法で、それで毎回話題になってそういう記事を書きたい業界人が見てくれるんならWIN-WINです、というつもりなら、私はテレビすらも嫌いになってしまいそう。

 

少し話は逸れるが、昔は戸川純のような人も普通に歌番組に出ていたってことを思うと、私はもうみぞみぞして仕方が無い。世間に受け入れられてたの?と母に聞くと「あの人は変わり者だったよ」と言っていた。それでもやはり「変わり者」として受け入れられていたということだろうなあと思った。ネットの無い時代では人々の目に触れるモノ、所謂メジャーなモノは本当に少なかっただろうと思うが、それでも今よりも幅広く個性のある粒ぞろいだったんじゃないだろうかとも思う。今は何でも見られるようになって聴けるようになって触れられるようになったけれど、メジャーシーンは遥かに縮小しているんじゃないか。本当の意味での「サブカルチャー」なんてもう存在しないんじゃないかって思う。昔は良かった、なんて言われて、クソ野郎と息巻くのが若者なのだとして、私はといえば、そうなのかもしれない、と思いを馳せるばかりで、これもある種の「ジェネレーションギャップ」かなあ、なんて考えていた。